院長コラム
おぎん ひとつの神に支配される、ひとつの思想に支配されることは日本人には出来ないのであろう。 芥川龍之介の作品に「おぎん」という短編小説がある。若くして両親を亡くしたおぎんは、かくれキリスタンの両親に育てられ洗礼を受けた。その後かくれキリスタンであることが判り育ての両親と共に処刑されることとなった。最後の審問でキリスト教を捨てれば命を助けるという。おぎんは両親とともに殉教しハライソ(天国)に行く決意をしていたが処刑台から松の木が覆う墓原がおぎんの目に入った。墓地には実の両親が埋葬されている。それを見ておぎんはキリスト教を捨てる決意をした。その訳をおぎんは涙ながらに育ての両親に訴えた。ここで殉教すれば憧れのハライソ(天国)にいける。しかし松の下の墓原に眠る実の両親はキリスト教ではなく地獄に落ちたままであり二度と出会うことができない。その辛さに教えを捨てることにした。実の両親の待つ地獄に落ちてもよい。 育ての両親はおぎんの転んだことに癇だかい声で叱りつけたが、おぎんの涙に溢れたその眼を見てそしてついには堕落した。 日本人は父母、祖父母から始まる多くの先祖と断ち切れないのである。自分を生み育てた八百万の神々とも断ち切ることができないのである。自然と共に生きた一万数千年の縄文時代の営みのなせる業なのだろうか? 16世紀以降キリスト教が日本で広まらなかった理由がここにある。 |